kunji5522’s diary

原田君事の俳優になったきっかけから俳優業18年の思い出

名匠 三隅研次監督との出会い(7)

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何の作品で太秦東映京都撮影所へ行っていたのか忘れましたが、その日は撮影がなかったんで旅館で何気なく新聞を読んでいたら『映画監督の三隅研次入院』の記事が載っていました。慌てて病院の場所を旅館で尋ねて見舞いに行きました。私が病室に顔を出すと起き上がり「一月もしたら、また仕事が出来るよ。そのときは声を掛けてやるから」と言われました。私は調子に乗って「一度でいいから平手造酒(ひらて みき)を演ってみたいんです」と大好きな浪曲「天保水滸伝」で有名な剣客の名を出すと、監督は「前に『座頭市物語』で天知茂君に平手造酒をやってもらった」とそのときのことを話してくださり「おっさんが俳優人生を賭ける気で臨んでくるんなら撮りまっせ」と元気そうに笑っておられました。それが三隅監督にお会いした最後になってしまいました。私が病室を訪ねた一ヶ月後に三隅研次監督は肝臓ガンで亡くなりました。まだ54歳という若さでした。個性が強くて、厳しい監督だったとか、怖い監督だったとよく耳にしますが、私には甘えられ冗談の言えるやさしい人でした、私のような芝居も出来ない俳優を使って、失敗をして、自分に迷惑が掛かるかも知れなのに役を膨らませてくれた大恩人!あの世とやらがあるのなら、再会して芝居の基本を徹底的に叩き込んでもらって俳優としてもう一度勝負をしてみたい。原田君事を男にして下さい、お願いします。 追伸・電子書籍パブ-にも三隅研次先生の事をくわしく書いていますので、読んでみて下さい。

名匠 三隅研次監督を偲んで(6)

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映画『狼よ落日を斬れ』風雲篇・激情篇・怒涛篇。 原作/池波正太郎 監督/三隅研次 出演/高橋英樹 松坂慶子 緒形拳 近藤正臣 西郷輝彦 1974年公開 松竹。三隅研次監督の最後の作品となった映画『狼よ落日を斬れ』にも出演させていただきました。映画『砂の器』の撮影で丹波さんと一緒に松竹大船撮影所へ行ったとき、撮影所の撮影予定が張ってあるボ-ドに、『狼よ落日を斬れ』三隅組と書いてあります。「あれ、三隅監督が大船で撮影してるんだ、私に一言声をかけてくれればいいのにと寂しい気持ちなりました。」それから、松竹出身の私としてはかって知ったる演技課へ行って、「三隅監督が、こちらで撮影をしてるんですか?」と聞きますと「そうだよ、何だったら絡みの斬られ役で使ってやろうか」と言われたので、「結構です」と断りました。演技課を出て廊下を歩いていると、偶然監督さんと会いました。挨拶をして、少し不満げに使って貰えなかった愚痴を言いますと「声を掛けたが、他の仕事が入っているから」と断られたと言う返事です。そこで、「そんな話しは聞いていないし、もしそうなら他の仕事は断ります」と云ってうちの事務所に電話をいれると、松竹から電話が入っていないとの返事を聞きその事を三隅監督に報告しますと、「よし、判った」と云って台本を書き換え官軍の役を作ってくださいました。幕臣の斬られ役から官軍の斬る役へ昇格できた訳です。戊辰戦争を描いた怒涛篇で私は西郷隆盛付きの仕官として画面に映っていて辰巳柳太郎さん扮する西郷隆盛の背後に立っています。赤熊(シャグマ)と云う赤い毛付き陣笠を被っているんでよく判別ができます。西郷さん付きから緒形拳さん演じる中村半次郎(人斬り半次郎/後の桐野利秋)付きになってからは準主役の緒形拳さんの近くにいるんで結構映っています。結核の病床で喀血して死んだ西郷輝彦さん演じる新撰組沖田総司が隠れ住んでいた家に幕臣の残党狩りで捜索にいく場面とか、上野戦争の立ち回りの場面にも何度かフレ-ムインしています。特に上野寛永寺に立てこもった彰義隊との斬り合いになる上野戦争では赤毛を振り乱しながら戦っているんで結構目立っています。

 

 

名匠 三隅研次監督との出会い(5)

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翌日、友達と待っていると監督さんが自ら車を運転して迎えに来てくださり、お気に入りの喫茶店を三軒もハシゴして内容は忘れましたがいろんな話しを聞いた記憶が残っています。こだわりの強い三隅監督は大のコ-ヒ-好きで酒は全く呑まない方でした。勝プロと制作を進めていた若山富三郎さん主演の子連れ狼シリ-ズの第一作映画『子連れ狼/子を貸し腕貸しつかまつる』の準備で忙しい頃でしたが自宅にも案内していただき大映倒産後の京都撮影所のことや映画の事など、いろいろと聞かせていただきました。特に大五郎役の富川晶宏君が名子役で、その演技力を絶賛されていたのをよく覚えています。

 

 

名匠 三隅研次監督との出会い(4)

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天皇の世紀』の撮影が終わって何年後かは忘れましたが、名古屋の御園座での仕事が終わり、久しぶりに神戸の両親に顔でも見せてやろうと思ったんですが、一緒に舞台に出て友達になった高橋英樹さんの弟子に「神戸に行くなら、京都に寄って自分の部屋で呑まないか?」と誘われて京都で一泊することにしました。酒を飲みながら他愛もない話の中で

私が「大映三隅研次監督の仕事をしたことがあるか」と聞きますと、「名前は知っているけど、顔も見た事が無い」という返事です。以前『天皇の世紀』で三隅監督に使ってもらった話しをしたんですが、酒が入って気が大きくなっていた私は「紹介してやろうか」と監督の京都市内の自宅へ調子に乗って電話をしました。「京都の友達の処に泊まっています」と話したら「明日、太秦東映の撮影所の正門の前で待っているように」と言われ、思いがけず会ってくださることになりました。

名匠 三隅研次監督との出会い(3)

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正直この頃は私が軽口を叩いていた三隅研次という監督さんが全盛期の大映時代劇を支えてきた名匠だという認識はまったくありませんでした。当時の私は酒を飲みに行くのに忙しくて映画やテレビはあまり観ていませんでした。年齢を重ねた今の私は、DVDや時代劇専門チャンネル三隅研次監督作品を観ているので凄い監督さんと付き合ってたんだなぁという思いはありますが。おべっかいを使ったり計算づくで近づいたりするような嫌らしさが私にあれば三隅監督はきっと受け入れてはくれなかったと思います。変わり者としても有名だった三隅監督が単細胞で出たとこ勝負で怖いものなしの私に目をかけてくださったのはストレ-トに懐へ飛び込んでくる私のような人間が珍しかったことと、変わり者同士お互いに気が合ったからだと思っています。もちろんその根本には手を差し伸べたくなるくらい私がダメだったからということがあるんでしょう。三隅監督は私が演じる過激派の薩摩藩士の役を膨らませてくださいました。寺田屋事件の斬り合い後、投降を呼びかける奈良原喜八郎に説得されて2階から丹波さん扮する田中河内介に藩主久光公に釈明するため薩摩へ行ってもらおうとします。2階から階段をかけ降りるカットの撮影本番前のテストで、セットの階段が急傾斜なので滑って尻餅をついた私に時代劇を撮り慣れてる監督は足袋の裏を水で濡らすと滑らないことを教えてくださいました。放送された『天皇の世紀』第九話「急流」は私の顔のアップが思った以上に多くて嬉しくなり高額でしたがDVDのボックスセットまで購入して持っています。

名匠 三隅研次監督との出会い(2)

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私の役は倒幕を画策している尊王攘夷過激派のひとりで、柴山竜五郎という薩摩藩士です。東京の砧にある国際放映の撮影所に組まれた薩摩藩大坂屋敷二十八番長屋のセットで倒幕の密談をしている薩摩藩士たちの撮影のカットで、三隅監督が役者の配置を指示されて、私は縁側へ座るように言われました。座った私からはどうやら倒幕過激派の志士が持つ緊張感が感じられなかったようで、三隅監督に「おっさん、何をのんびりした顔をしてまんねや。温泉につかっとんのと違いまっせ!」と関西弁で叱られました。セットの中は大爆笑。それからは何かあると「おっさん」です。カメラマンまでがわたしを「おっさん」と呼ぶようになったんで、一丁調子を合わせて場の雰囲気を盛り上げてやるか。「おっさん」こちらは「へい、へい」と返していました。シ-ン変わりの準備の間に火に当たっていると、三隅監督が「おっさんはどこの役者や?」と聞かれたんで「さむらいプロです」と答えました。そしたら「ふうん、丹哲のとこか」と言われたんで、こっちも「だから、抱き合わせでキャスティングされたんじゃないですか?」と答えたら「おもろい男やなぁ、自分で抱き合わせと言うんか?」と笑われました。それがきっかけですっかり打ち解け、雑談になり、20歳のときに大映京都のフレッシュフェ-スの試験を受けたことを話しました。「結果はどうやったんや?」「最終の5人まで残ったんですけどダメでした」「そのときの試験官は見る目がなかったんやなぁ」「だから大映は潰れたんのと違いますか」一瞬、場は静かになり、回りにいた連中が呆れた顔で聞いていたのを思い出します。「ろくすっぽ芝居もできない奴が、大監督に向かってよく言うよ」と内心思っていたんでしょう。

名匠 三隅研次監督との出会い(1)

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朝日放送開局20周年記念番組テレビ時代劇『天皇の世紀』監督/三隅研次 出演/丹波哲郎 滝田裕介 織本順吉 草野大悟 1971年 朝日放送国際放映。第8話と第9話に尊王攘夷派の志士 田中河内介役で主演された丹波哲郎さんの抱き合わせとして私も1862年(文久2年)の寺田屋事件を題材にした第9話「急流」に出演しました。薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発を恐れる藩主島津久光の命を受けた奈良原喜八郎たちと過激派の志士たちは京都伏見の船宿寺田屋で同じ薩摩藩同士で斬り合いになり尊王攘夷過激派は鎮圧されます。寺田屋にいた田中河内介は捕縛され、薩摩へ護送途中の船上で斬殺されて海に投げ棄てられることになります。