kunji5522’s diary

原田君事の俳優になったきっかけから俳優業18年の思い出

名匠 三隅研次監督との出会い(4)

f:id:kunji5522:20180306191327j:plain

天皇の世紀』の撮影が終わって何年後かは忘れましたが、名古屋の御園座での仕事が終わり、久しぶりに神戸の両親に顔でも見せてやろうと思ったんですが、一緒に舞台に出て友達になった高橋英樹さんの弟子に「神戸に行くなら、京都に寄って自分の部屋で呑まないか?」と誘われて京都で一泊することにしました。酒を飲みながら他愛もない話の中で

私が「大映三隅研次監督の仕事をしたことがあるか」と聞きますと、「名前は知っているけど、顔も見た事が無い」という返事です。以前『天皇の世紀』で三隅監督に使ってもらった話しをしたんですが、酒が入って気が大きくなっていた私は「紹介してやろうか」と監督の京都市内の自宅へ調子に乗って電話をしました。「京都の友達の処に泊まっています」と話したら「明日、太秦東映の撮影所の正門の前で待っているように」と言われ、思いがけず会ってくださることになりました。

名匠 三隅研次監督との出会い(3)

f:id:kunji5522:20180303213156j:plain

正直この頃は私が軽口を叩いていた三隅研次という監督さんが全盛期の大映時代劇を支えてきた名匠だという認識はまったくありませんでした。当時の私は酒を飲みに行くのに忙しくて映画やテレビはあまり観ていませんでした。年齢を重ねた今の私は、DVDや時代劇専門チャンネル三隅研次監督作品を観ているので凄い監督さんと付き合ってたんだなぁという思いはありますが。おべっかいを使ったり計算づくで近づいたりするような嫌らしさが私にあれば三隅監督はきっと受け入れてはくれなかったと思います。変わり者としても有名だった三隅監督が単細胞で出たとこ勝負で怖いものなしの私に目をかけてくださったのはストレ-トに懐へ飛び込んでくる私のような人間が珍しかったことと、変わり者同士お互いに気が合ったからだと思っています。もちろんその根本には手を差し伸べたくなるくらい私がダメだったからということがあるんでしょう。三隅監督は私が演じる過激派の薩摩藩士の役を膨らませてくださいました。寺田屋事件の斬り合い後、投降を呼びかける奈良原喜八郎に説得されて2階から丹波さん扮する田中河内介に藩主久光公に釈明するため薩摩へ行ってもらおうとします。2階から階段をかけ降りるカットの撮影本番前のテストで、セットの階段が急傾斜なので滑って尻餅をついた私に時代劇を撮り慣れてる監督は足袋の裏を水で濡らすと滑らないことを教えてくださいました。放送された『天皇の世紀』第九話「急流」は私の顔のアップが思った以上に多くて嬉しくなり高額でしたがDVDのボックスセットまで購入して持っています。

名匠 三隅研次監督との出会い(2)

f:id:kunji5522:20180302195251j:plain

私の役は倒幕を画策している尊王攘夷過激派のひとりで、柴山竜五郎という薩摩藩士です。東京の砧にある国際放映の撮影所に組まれた薩摩藩大坂屋敷二十八番長屋のセットで倒幕の密談をしている薩摩藩士たちの撮影のカットで、三隅監督が役者の配置を指示されて、私は縁側へ座るように言われました。座った私からはどうやら倒幕過激派の志士が持つ緊張感が感じられなかったようで、三隅監督に「おっさん、何をのんびりした顔をしてまんねや。温泉につかっとんのと違いまっせ!」と関西弁で叱られました。セットの中は大爆笑。それからは何かあると「おっさん」です。カメラマンまでがわたしを「おっさん」と呼ぶようになったんで、一丁調子を合わせて場の雰囲気を盛り上げてやるか。「おっさん」こちらは「へい、へい」と返していました。シ-ン変わりの準備の間に火に当たっていると、三隅監督が「おっさんはどこの役者や?」と聞かれたんで「さむらいプロです」と答えました。そしたら「ふうん、丹哲のとこか」と言われたんで、こっちも「だから、抱き合わせでキャスティングされたんじゃないですか?」と答えたら「おもろい男やなぁ、自分で抱き合わせと言うんか?」と笑われました。それがきっかけですっかり打ち解け、雑談になり、20歳のときに大映京都のフレッシュフェ-スの試験を受けたことを話しました。「結果はどうやったんや?」「最終の5人まで残ったんですけどダメでした」「そのときの試験官は見る目がなかったんやなぁ」「だから大映は潰れたんのと違いますか」一瞬、場は静かになり、回りにいた連中が呆れた顔で聞いていたのを思い出します。「ろくすっぽ芝居もできない奴が、大監督に向かってよく言うよ」と内心思っていたんでしょう。

名匠 三隅研次監督との出会い(1)

f:id:kunji5522:20180302162552j:plain

朝日放送開局20周年記念番組テレビ時代劇『天皇の世紀』監督/三隅研次 出演/丹波哲郎 滝田裕介 織本順吉 草野大悟 1971年 朝日放送国際放映。第8話と第9話に尊王攘夷派の志士 田中河内介役で主演された丹波哲郎さんの抱き合わせとして私も1862年(文久2年)の寺田屋事件を題材にした第9話「急流」に出演しました。薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発を恐れる藩主島津久光の命を受けた奈良原喜八郎たちと過激派の志士たちは京都伏見の船宿寺田屋で同じ薩摩藩同士で斬り合いになり尊王攘夷過激派は鎮圧されます。寺田屋にいた田中河内介は捕縛され、薩摩へ護送途中の船上で斬殺されて海に投げ棄てられることになります。 

松方弘樹さんを偲んで

f:id:kunji5522:20180227201651j:plain

映画『恐喝こそわが人生』監督/深作欣二 出演/松方弘樹 丹波哲郎 佐藤友美 室田日出男 1968年公開 松竹。 私が松竹大船撮影所の俳優部に入って2年目の仕事です。当時、松竹映画は人情喜劇が多かったんですが、『仁義なき戦い』『赤穂城断絶』で有名な、東映深作欣二監督の手にかかれば松竹でも東映調の面白いアクション映画ができるんだと、映画館で感心しながら観たのがこの映画です。私は恐喝が目的で、ラブホテルで盗み撮りをするカメラマンの役として出演しました。又、背格好が同じ位なのでワンカットですが松方さんの後ろ姿の吹き替えもやっています。松方さんとは生まれた年が一緒だったんで個人的に親近感を覚えていました。2017年1月21日、松方さんが亡くなられたことをニュ-スで知り、当時の思い出と共に松方さんを偲ぶために『恐喝こそわが人生』をDVDで購入して観ました。あらためて観直してみると、この映画には丹波哲郎さんも作品に重みを出す為に出演しています。撮影の時は、まさか後年、私が丹波さんの弟子になり丹波プロダクションで仕事をするようになるとは夢にも思いませんでした、人生とは面白いものですネ。(上の写真は映画とは関係ありませんが無いよりましでしょう)

左とん平さんを偲んで

f:id:kunji5522:20180225203457j:plain

今日、左とん平さんが亡くなられた事を知り、お悔やみの気持ちを込めて一度だけですが仕事を御一緒させていただいた時の事を書いてみます。映画『喜劇・黄綬褒章』監督/井上和男 出演/森繁久彌黒沢年男市原悦子大原麗子、1973年公開 東宝。各家庭の糞尿を吸収するバキュ-ムカ-を運営する清掃会社を舞台にした森繁久彌さんの喜劇です。丹波プロの小林マネ-ジャ-が取っきてくれた仕事で私の役は左とん平さん演じるやくざの兄貴分です。朝、砧の東宝撮影所の現場へ行くと井上和男監督が台本を持ってきて「このシ-ンは変わりましたので準備の間に覚えてください」言われました。見ると1ペ-ジ半はあります。さぁ大変です。15分くらいしかありませんが「覚えられません」とは言えないからとん平さんと東宝の喫茶室へ行って、セリフの量は結構あったんですが必死で覚えた記憶があります。この映画でご縁をいただいて撮影のときにとん平さんに案内されて東宝撮影所近くにあった森繁さんのご自宅に遊びに行きました。また、ミュ-ジカルを観た事の無い私が森繁さんの当たり役だったユダヤ人の牛乳屋ティヴエに扮した東宝大ヒットミュ-ジカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の公演を観に行ったときに帝国劇場の楽屋へ遊びに行ったのも楽しい想い出です。原田君事もその内、丹波さんの言っておられたそちらの世界へ行きますので森繁さんによろしく言って下さい。ご冥福を心よりお祈りいたします。 

精神(こころ)の法則

f:id:kunji5522:20180223171000j:plain

今日は、最近弛んでいる自分に気合を入れるため初心に戻ってみる。人生の優勝劣敗を決定づける精神の法則がある。人間のからだも、この法則に支配されている。絶妙にして偉大な精神の法則がある。「精神の第一法則」思い込む事は必ず実現する!。「精神の第二法則」習慣的なプラスの感情は人生を勝利に導き、習慣的なマイナスの感情は人生を劣敗に導く。「精神の第三の法則」第一次のマイナスの感情は劣敗の原因となり、第二次のマイナスの感情は劣敗に拍車をかけ、第三次のマイナスの感情は劣敗に安住せしめ、第四次のマイナスの感情は劣敗を再発せしめる。「精神の第四法則」気にすれば気にするほどわるくなる!。「巽直道 著書より」 さあ!気合を入れてやりなおします。